漫画はファストフード化したのか? 中国紙より

やや旧聞に属するが、レコードチャイナがこんな記事を掲載していた
簡単に要約すると、日本文化の代表格であった漫画は「ファストフード化」しており個性がなくなっていたが、今回の震災で日本全体がダメージを負ったことにより、希望とパワーに溢れた素晴らしい作品が生まれるのではないか、という内容であった。

今回の震災がコンテンツ、特に漫画やアニメに与える影響については各所で論じられており、納得できるものも疑問に思うものもあるが、今回はそれに関する議論が趣旨ではないため、措くとする。

私が引っ掛かったのは、海外の新聞紙が「日本の漫画のファストフード化」という表現を用いていたことだ。
この記者がどのような作品に触れてそう感じたかは推測の域を出ないが、少なくとも私の触れている範囲内では、漫画において重厚な、深く考えされられる作品が無くなったとは言えないように思う。

だが一方で、そういった作品はある程度時間をかけて探さなければならなくなったのも事実だろう。その原因の一旦は、日本における漫画が、試行錯誤によって尖鋭化してしまったことにあるのではないか。

以前、「ひぐらしのなく頃に」の竜騎士07氏が、ラノベやアニメや漫画を「DLL」に例えて語っていた文章を読んだ。
DLLとは、非常に簡単に言うとあるコンピュータのプログラムが共用で利用する部品のようなものだ。
氏は、尖鋭化したラノベやアニメや漫画は、共用化された「お約束」をDLLとして受け手に要求するようになり、その結果としてDLLをインストールしていない、つまり「お約束」を知らない人には理解し難いものになる傾向がある、という趣旨のことを語っていた。

氏の言わんとすることはは普段私が感じていたことを的確に表現していたため、思わず膝を打ってしまった。
つまり、金髪ツインテールで声優が釘宮嬢であればツンデレだろう、ツンデレならここでデレるだろう、というお約束だ。

確か、氏はボーイミーツガール系のラノベでよくある、親が海外で仕事をして登場しない設定についても言及していたように記憶している。
現実に即した小説であればある程度の背景説明や心理描写が行われるだろうが、ラノベでは一行で「親は無視してよい情報である」というお約束を提示できるということだ。

今回の中国紙の記事を読んで、もしかしたらこういった状況を見て、記者はファストフード化したという表現を用いたのかもしれないと感じた。確かに、お約束の積み重ねで情報を削ぎ落し、ある一つの切り口に特化した作品はファストフードと呼べなくはないのかもしれない。

だが、個人的にそれも別に構わないではないか、と思う。私はそういった作品を楽しむし、楽しむ際にはそういうスイッチを入れる。作品をもし精神の食べ物に例えるならば、ファストフードもあっていいし、チョコレートボンボンも、フレンチのフルコースもあっていい。ただ、一種類の食べ物が絶対であるかのように考えたり、実際にそれ以外のものが排斥されるようなことは、困る。

かなり前になるが、「最終兵器彼女」という漫画があった。
SFと言えばSFなのだが、はっきり言って設定は目茶苦茶だし、背景すら何も語られない。それどころか、世界が破滅しようとしているのになぜ破滅するのかすら分からないまま物語は終わる。

それでも、私は大泣きに泣いた。作者が、敢えて主人公とヒロイン周辺以外の情報を切り落とすことで、二人の物語を最大限にクローズアップしたことを痛い程感じた。

もちろん、この作品を受け付けず、駄作と思う人もいるだろう。だが、それでいいと思うのだ。最終兵器彼女は、例えるなら具が全く入っていない一皿のスープのようなものかもしれない。それでも、それを楽しめる人はいるに違いないのだ。

話を戻そう。
漫画の先鋭化によってファストフード化した領域が出来てしまっても、選ぶことが出来ればよい。つまり、メニューがあればよいのだ。

だが、それが難しい。
例えば、最近私は「少女ファイト」「ちはやふる」を連続して読んだ。少女ファイトで感動し、女子が部活で戦う漫画が読みたい、と思って記憶の中の「いずれ読むリスト」から「ちはやふる」を引っ張り出してきたのだ。

こういう幸運なケースならまだしも、気分にぴったり合う佳作、傑作を探すのはかなり苦労する。そして、それほど漫画に思い入れのない人は、そこまでの労力を払わないだろう。

個人的に、これが今、漫画やアニメ、ラノベなど、日本の先鋭的なコンテンツが直面している危機の一つように思う。
極めて多様で、入れば入るほど実に面白い。だが、地図がないのだ。手探りで藪を漕いで進もうという者にしか、道は開かれない。これでは、やはりごく一部の人にしか受け入れられなくなってしまう。

尖鋭化は日本人の得意分野であるものの、何とか出来ないものかと日々思うのである。