まどか☆マギカ再考1 さやかの願いと絶望

日経BPを読んでいて、ある記事が目に止まった。
「人のため、被災地のため」と思う人が陥る自覚なき勘違いという記事だ。元の記事自体、非常に面白いので是非ご覧頂きたいが、勝手ながら要約すると、

「誰かのために働く」というのは、実は非常に難しい。突き詰めるとそれは最終的に自分のためであり、金銭ではなくとも、笑顔や感謝など、見返りがなければ動機だったはずの優しさは容易に怒りに変わり得る。その「自分のため」という突き詰めた動機を見逃してしまうと、本当に誰かのために働くことは出来ないのではないか。

というような感じだ。とても示唆に富んでいると思う。この記事の中に、こんなくだりがあった。

 「あなたのために私はこんなにやっているのに、なんであなたは分かってくれないの?」と、いくら尽くしてもつれない態度を取る彼氏に対して不満を抱く女性のようになってしまうとも限らないから(尽くす男性とつれない女性でも構わないが……)。

 人のためは自分のため。「誰かのため」とか、「人の役に立たちたい」と働くことは、結局は自分のため。それを忘れてしまうと、それが分かっていないと、本当に人の役に立つことなどできないのではないだろうか。

これを読んで、真っ先に頭に浮かんだのが、まどか☆マギカのさやかだった。

以前、まどか☆マギカは自己犠牲と救済の物語なのか?というエントリを書いた。上の記事を読み、さやかの願いと選択についてもう一度考えてみて、やはりまどかの願いは自己犠牲ではない、とさらに確信を強めたのである。

さやかは、上条の腕を治したいと願い、魔法少女になった。そのとき、彼女が描いていた未来は、どんなものだったのだろうか。それは恐らく、OPに一瞬だけ登場するシーンだったのだろう。

そんな未来を描きながら迷うさやかに、マミさんは警告した。

「美樹さん、あなたは彼に夢を叶えてほしいの?それとも彼の夢を叶えた恩人になりたいの?」
「同じようでも全然違うことよ。これ」
第3話より

至言である。この二つは、願う奇跡が同じものの、その先に描く未来が全く異なる。そして、さやかが「その言い方はちょっと酷い」と言って気を悪くした通り、前者は美しい献身だが、後者はあけすけな欲望だ。

だが、さやかは思い直し、マミさんの言葉を受け入れる。そして彼女は魔法少女になり、一見、マミさんの問いに対して、彼女なりの答えを見つけたように思えた。

「あんた達とは違う魔法少女になる。私はそう決めたんだ。誰かを見捨てるのも、利用するのも、そんな事をする奴らとつるむのも嫌だ。見返りなんていらない。私だけは絶対に自分の為に魔法を使ったりしない」
第8話より

さやかは戦った。彼女の信じる美しい理想を掲げて。その結果どうなったかは、見ての通りだ。
お伽噺の世界では、無垢な献身が何らかの形で報われる。だが、まどか☆マギカの世界では、何らの見返りも得られない。現実がしばしばそうであるように。

さやかの願いは、全てではないにしろ、幾分かは上条に感謝して欲しい、そしてあわよくば一緒に幸せになりたい、という動機からのものだった。さやかは、全ての始まりにおいて、そこから目を逸らした。自分自身の中に、そういう醜い欲望があることに、お伽噺の正義の味方にはなれないことに、背を向けた。

だからこそ、さやかはあれほど絶望したのだろう。恋が叶わないことでも、人間に戻れないことでもなく、自分自身が魔法少女になる前から、理想とかけ離れた存在であったことに気付いてしまったが故に。

私がまどかの願いが自己犠牲によるものではない、と感じるのも、これが理由だ。この物語から、「見返りを求めない献身など、甘い幻想に過ぎない」というポリシーがひしひしと感じられるためだ。

まどかは、さやかが壊れて行く一部始終を全て見ていた。その上で彼女が願ったことが、慈愛に満ちた自己犠牲であるはずがない、と思う。彼女もまた、女神ではなく一人の人間なのだから。

先の記事は、こんな言葉で締めくくられている。

人に優しくなるには、自分が強くならなきゃいけない。人のために仕事をするには、その人を支える強さを持っていなきゃいけない。優しさよりも、むしろ強さが、今求められているのではないだろうか。

私は、やはりまどかは戦士であると思う。ヒーローと言い換えてもいいかもしれない。自分自身の本当の願い、「誰かのために」ではなく、「自分の奥底の望みは何か」と向き合った結果、彼女は救うことではなく、戦うことを選んだのではないかと思うのだ。

杏子やほむらについても色々と思うところがあるので、それはまた日を改めて書きたい。