プロフェッショナルとはかくも美しく 「日常」第6話まで

「日常」には楽しませてもらっている。
元々原作の評判は知っていたのだが、今回アニメを見て原作を読んでみた。そしてすぐに後悔した。ネタバレしてアニメを純粋に楽しめなくなったからだ。

確かに、原作は面白い。シュールな世界は、漫画でしか表現できないものもあると思う。そして、日常のアニメ版が各所で酷評されているのも知っている。

曰く、京アニは萌えを意識し過ぎて原作を殺している。曰く、あの独特なテンポをアニメ化するのは無理だった、など。

だが、私は正直、アニメを充分に楽しめたし、原作に負けず劣らず魅力のある作品になっていると思う。
その原因はいくつかあるだろう。さすが京アニ、と目を引き付ける作画もその一つだし、漫画と違って「一定の速度でコンテンツが流れる」ということを前提とした演出もその一つだ。

ここで取り上げたいのは、その中で私が心底感心した、「声」の部分だ。そしてこれは同時に、漫画とアニメの最大の違いの一つでもある。そう、アニメには「音」があるのだ。

思えば、最近声優に思わず唸らされることが多い。まどか☆マギカでも、悠木碧嬢、斎藤千和嬢の演技には背筋が寒くなるほどのプロフェッショナリズムを感じた。

言うまでもなく、アニメはたくさんの要素が集まって出来ている作品だ。そして、その要素は、「画を撮る」という映画に比べても全く遜色がないだろう。もちろんロケハンやモデルはあるにせよ、「画を描く」ことで、一つの世界をまるごと生み出すのだから。

そして、映画の技法や俳優の演技については、やはり海外に一日の長があるように思う。これは黒澤明小津安二郎など、日本映画の巨人を否定する意図では全くなく、「システマイズされた教育、論理的に分析された技術、それに伴う社会的地位」が確立されているという意味である。個々の作品の優劣を議論するつもりはないし、そんなことは無意味だ。

ご存知の方も多いとは思うが、欧米では演劇や脚本は学問として勉強するものであり、論理的に分析されつくした手法が大学や大学院で教えられている。そして、そういったところを卒業した者たちが、資本主義の論理の中でヒット作を作っているのだ。繰り返すが、作品の優劣を問うつもりは全くない。事実として、ハリウッドの生み出す富はそういった仕組みに支えられ、ますます増加しているという点を指摘しているのみだ。

アニメーションにおいても、ピクサーを始めとする3Dスタジオがヒット作を次々に生み出し、あたかも2Dのアニメーションは古いかのように言われている。上記のような、日本がアニメで築き上げてきた技術も、どんどん分析され、模倣されているだろう(ピクサーなどはあくまで映画なので、テレビアニメの技法とは異なる論理にはなるだろうが)。

だが、まどか☆マギカ、日常を見ていて、私は「声優」の力の偉大さを改めて思い知った。
他国では、声を当てているのはほとんどが俳優や女優であり、「声」の専門家ではない。
もちろん、彼ら・彼女らもプロフェッショナルであることは間違いないが、「声だけ」で全てを表現するという点においては、声優に一歩を譲るのではないだろうか。

少なくとも、私がこれまで見た英語吹き替えのアニメで、日本の声優を上回る程の戦慄を覚えたことはない。
私の勉強不足であれば大変申し訳ないが、まどか☆マギカ10話の、千和嬢の悲痛な叫び、日常5話の、本多真梨子嬢の素を見せたかのような絶妙な演技。
これは、日本が世界に誇れる技術であり、真のプロフェッショナルの仕事である、と感じたのである。
願わくは、この技術が失われず、日本が世界の最前線であり続けんことを。