【ネタバレ】「ラブライブ! The School Idol Movie」と「THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!」〜アイドルとスクールアイドル〜

先日、ラブライブ!劇場版を観てきた。一年生色紙を狙って行ったところ、凛ちゃん推しの私としては残念なことにかよちんであった。その場で近くの人と交換しようかと思ったが、普通のファンである私は周囲みんなが筋金入りのラブライバーに見え、話しかけるとそのオーラに消滅させられそうな気がしてやめた。

さて、映画そのものについては、TV版にも増した突然のミュージカル分に多少戸惑いながらも、心から楽しむことができた。昨年のアイマス劇場版と同じくらい、いやそれ以上に楽しませてもらったと言って過言ではないだろう。

先日、アイマス劇場版はリーダーシップとチームビルディングの物語であると書いた。
正直なところ、アイマス劇場版は鑑賞中にいち社会人としての観点でしか見られなくなり、物語にあまり没入できなかったことを白状する。それは、チームに課題が持ち上がり、それを解決するまでの過程、そしてその結論が、ちょうど企業で起きていることと重なったからである。

一方、ラブライブ!劇場版は、ニューヨークから戻ってきたあと、同様にチームに課題が持ち上がる。その時点で私はアイマス劇場版のときのように社会人スイッチが入りかけたのだが、その後の過程、そしてその結論を観ていて、社会人スイッチが入ることはなかった。観終わってからなぜだろう、とずっと考え続けていたのだが、あるとき自分なりの結論に至るとともに、アイマスラブライブ!という物語について一つの解釈を得たので、ここに書いておくことにする。

きっかけは、「ああ、多分765プロの子たちなら、アイドルを続けただろうな」と思ったことだ。

■プロのアイドルであるということ

アイマスの主人公たちは、プロフェッショナルなアイドルだ。
それはそもそものコンテンツの成り立ちに由来するのかもしれない。すなわち、私たちは「プロデューサー」であって、アイドルを成長させ、多くのファンを獲得し、プロとしての成功に導く立場なのだ。好きなキャラを「●●推し」ではなく「●●担当」と表現するのも、その立場をよく表している。

そして、アイマスのライブでは、輝くアイドルと共に、裏方であるスタッフ、そして何よりも多くの観客たちが描かれる。彼女たちは、プロダクション、スタッフ、その他「アイドルビジネス」の中の一部であり、ファンに笑顔を届けるプロフェッショナルなアイドルなのだ。

アイマス劇場版では、特にそれが顕著だった。美希は春香を「甘々」だと言い、伊織は「プロとしては大甘」だと言った。どちらもプロとしての矜持に溢れた言葉だ。

スピンオフであるシンデレラガールズでも、本田未央を立ち直らせたのはファンの笑顔であった。凸レーションが迷った時、最後の判断基準になったのはお客さんのために、だった。そして最終話で、彼女たちがアイドルになったことを実感するのは、ファンレターを読んだ時だった。アイマスにおいて、悩み苦しんだ結果、彼女たちがアイドルであることを証明し、アイドルであることを支えるのは、最終的にファンなのだ。

そのため、アイマスでは、最後のハッピーエンドの条件として、ファンと一体になった、商業的に成功したステージが描かれる。そして、μ'sと同じ立場に置かれたら、765プロの子たちはアイドルを続けることを選ぶだろう。

なぜならば、アイマスは「輝くプロフェッショナルなアイドルを目指して駆け上がる女の子たちの物語」だからだ。

■スクールアイドルであるということ

一方で、今回のラブライブ!劇場版である。
μ'sの解散という大きな課題を前にして、彼女たちが取ったプロセスは、アイマスのそれとは大きく異なるものだった。アイマスでは春香というリーダーに、チームの規範を決める役割を任せ、他のメンバーはそのフォロワーに徹した。ラブライブ!では穂乃果がリーダーであるものの、衆議を尽くして最終意思決定をしたわけではなく、それぞれのメンバーがそれぞれに悩んで結論を出した。このプロセスは、意思決定のヒエラルキーを重視するものではなく、むしろ同好会やサークルのそれである。

そして最終的な結論は、ラブライブ!アイマスの最大の違いであった。μ'sは、後輩に、ライバルに、スタッフ(と言っていいか分からないがことりママに)に、そして何よりもファンにアイドルであり続けることを強く望まれた。それでも、彼女たちの選択は、μ'sをここで終わりにする、というものだった。その理由として、穂乃果はμ'sがなぜ始まったのかを大切にしたいと語る。

そこには、普通の女の子の姿があった。
廃校の運命から母校を救うために走り始めて、大好きなことをやり続けて、ただ夢を叶えようと頑張ってきた、普通の女の子の姿があった。

ラブライブ!のライブシーンでは、驚くほど観客の姿がカメラに映らない。PVであれば当然だが、普通のライブシーンであっても、通常あるべきサイリウムを振って合いの手を入れる観客はいないのだ。これは、アイマスがほとんどのライブシーンで大量のサイリウムを、合いの手を表現していることと対照的だ。

つまり、極論してしまえば彼女たちは観客を必要としないのだ。そこに仲間がいて、ともに作り上げていくステージがあって、キラキラした舞台があるのならば、それでμ'sの物語は完成する。だからこそ、敢えて私は、ラブライブ!は「アイドルアニメ」ではなかったのだと言いたい。

スクールアイドルとは「スクールアイドルという部活」であり、ラブライブ!は徹頭徹尾、「大好きなことをやり抜いて夢を叶える女の子たちの物語」なのだ。

■そして物語の完成へ

考えてみれば、ラブライブ!を象徴する言葉は、いつも同じテーマを持っていた。「叶え、私たちの夢」から「叶え、みんなの夢」を経て「みんなで叶える物語」へ。

穂乃果は、そしてμ'sは、夢を叶えた。そして、夢を後に続くみんなに託した。だから、これでμ'sの物語は終わりなのだ。

寂しさはある。進学した3年生たちを、上級生になった穂乃果たちを改めて見てみたいという思いも強い。それでも、この言葉で締めたいと思う。

おめでとう。ありがとう。そしてさようなら、μ's。