【ネタバレ】「ラブライブ! The School Idol Movie」と「THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!」〜アイドルとスクールアイドル〜

先日、ラブライブ!劇場版を観てきた。一年生色紙を狙って行ったところ、凛ちゃん推しの私としては残念なことにかよちんであった。その場で近くの人と交換しようかと思ったが、普通のファンである私は周囲みんなが筋金入りのラブライバーに見え、話しかけるとそのオーラに消滅させられそうな気がしてやめた。

さて、映画そのものについては、TV版にも増した突然のミュージカル分に多少戸惑いながらも、心から楽しむことができた。昨年のアイマス劇場版と同じくらい、いやそれ以上に楽しませてもらったと言って過言ではないだろう。

先日、アイマス劇場版はリーダーシップとチームビルディングの物語であると書いた。
正直なところ、アイマス劇場版は鑑賞中にいち社会人としての観点でしか見られなくなり、物語にあまり没入できなかったことを白状する。それは、チームに課題が持ち上がり、それを解決するまでの過程、そしてその結論が、ちょうど企業で起きていることと重なったからである。

一方、ラブライブ!劇場版は、ニューヨークから戻ってきたあと、同様にチームに課題が持ち上がる。その時点で私はアイマス劇場版のときのように社会人スイッチが入りかけたのだが、その後の過程、そしてその結論を観ていて、社会人スイッチが入ることはなかった。観終わってからなぜだろう、とずっと考え続けていたのだが、あるとき自分なりの結論に至るとともに、アイマスラブライブ!という物語について一つの解釈を得たので、ここに書いておくことにする。

きっかけは、「ああ、多分765プロの子たちなら、アイドルを続けただろうな」と思ったことだ。

■プロのアイドルであるということ

アイマスの主人公たちは、プロフェッショナルなアイドルだ。
それはそもそものコンテンツの成り立ちに由来するのかもしれない。すなわち、私たちは「プロデューサー」であって、アイドルを成長させ、多くのファンを獲得し、プロとしての成功に導く立場なのだ。好きなキャラを「●●推し」ではなく「●●担当」と表現するのも、その立場をよく表している。

そして、アイマスのライブでは、輝くアイドルと共に、裏方であるスタッフ、そして何よりも多くの観客たちが描かれる。彼女たちは、プロダクション、スタッフ、その他「アイドルビジネス」の中の一部であり、ファンに笑顔を届けるプロフェッショナルなアイドルなのだ。

アイマス劇場版では、特にそれが顕著だった。美希は春香を「甘々」だと言い、伊織は「プロとしては大甘」だと言った。どちらもプロとしての矜持に溢れた言葉だ。

スピンオフであるシンデレラガールズでも、本田未央を立ち直らせたのはファンの笑顔であった。凸レーションが迷った時、最後の判断基準になったのはお客さんのために、だった。そして最終話で、彼女たちがアイドルになったことを実感するのは、ファンレターを読んだ時だった。アイマスにおいて、悩み苦しんだ結果、彼女たちがアイドルであることを証明し、アイドルであることを支えるのは、最終的にファンなのだ。

そのため、アイマスでは、最後のハッピーエンドの条件として、ファンと一体になった、商業的に成功したステージが描かれる。そして、μ'sと同じ立場に置かれたら、765プロの子たちはアイドルを続けることを選ぶだろう。

なぜならば、アイマスは「輝くプロフェッショナルなアイドルを目指して駆け上がる女の子たちの物語」だからだ。

■スクールアイドルであるということ

一方で、今回のラブライブ!劇場版である。
μ'sの解散という大きな課題を前にして、彼女たちが取ったプロセスは、アイマスのそれとは大きく異なるものだった。アイマスでは春香というリーダーに、チームの規範を決める役割を任せ、他のメンバーはそのフォロワーに徹した。ラブライブ!では穂乃果がリーダーであるものの、衆議を尽くして最終意思決定をしたわけではなく、それぞれのメンバーがそれぞれに悩んで結論を出した。このプロセスは、意思決定のヒエラルキーを重視するものではなく、むしろ同好会やサークルのそれである。

そして最終的な結論は、ラブライブ!アイマスの最大の違いであった。μ'sは、後輩に、ライバルに、スタッフ(と言っていいか分からないがことりママに)に、そして何よりもファンにアイドルであり続けることを強く望まれた。それでも、彼女たちの選択は、μ'sをここで終わりにする、というものだった。その理由として、穂乃果はμ'sがなぜ始まったのかを大切にしたいと語る。

そこには、普通の女の子の姿があった。
廃校の運命から母校を救うために走り始めて、大好きなことをやり続けて、ただ夢を叶えようと頑張ってきた、普通の女の子の姿があった。

ラブライブ!のライブシーンでは、驚くほど観客の姿がカメラに映らない。PVであれば当然だが、普通のライブシーンであっても、通常あるべきサイリウムを振って合いの手を入れる観客はいないのだ。これは、アイマスがほとんどのライブシーンで大量のサイリウムを、合いの手を表現していることと対照的だ。

つまり、極論してしまえば彼女たちは観客を必要としないのだ。そこに仲間がいて、ともに作り上げていくステージがあって、キラキラした舞台があるのならば、それでμ'sの物語は完成する。だからこそ、敢えて私は、ラブライブ!は「アイドルアニメ」ではなかったのだと言いたい。

スクールアイドルとは「スクールアイドルという部活」であり、ラブライブ!は徹頭徹尾、「大好きなことをやり抜いて夢を叶える女の子たちの物語」なのだ。

■そして物語の完成へ

考えてみれば、ラブライブ!を象徴する言葉は、いつも同じテーマを持っていた。「叶え、私たちの夢」から「叶え、みんなの夢」を経て「みんなで叶える物語」へ。

穂乃果は、そしてμ'sは、夢を叶えた。そして、夢を後に続くみんなに託した。だから、これでμ'sの物語は終わりなのだ。

寂しさはある。進学した3年生たちを、上級生になった穂乃果たちを改めて見てみたいという思いも強い。それでも、この言葉で締めたいと思う。

おめでとう。ありがとう。そしてさようなら、μ's。

艦これが殺したもの、モバマスが再生したもの

今期(2015年1月から)のアニメでは、200万人以上のプレイヤーと100以上のキャラクターを抱える人気ソーシャルゲーム艦隊これくしょん(艦これ)とアイドルマスターシンデレラガールズモバマス=モバゲーのアイマスだから)が同時期に放送されるということで、大きな話題になっていた。

まだ2話までしか放送されていないが、これまでのところ、艦これの評価はいまひとつでモバマスはかなりの好評を博している。

その原因について、双方を初期からプレイし、二次創作もかなり追いかけてきた立場として考えてみたい。

■二次創作
艦これにしてもモバマスにしても、人気の一端は二次創作の盛り上がりが支えていた。

コミケでは艦これが独立ジャンルになるほどだし、モバマスも今でこそ下火になっているものの、二次創作はサービス開始からそれなりに活況を呈していた。

これは、キャラの数が多い割にストーリーらしいストーリーがあまりないソシャゲのメリットでもある。いわば二次創作をする「スキマ」がたくさんあったのだ。

モバマスで言えば、身長差コンビの諸星きらり双葉杏(あんきら)の関係や、本田未央が不遇だったり新田美波がエロかったりなどの二次設定が生まれ、ものによっては原作ゲームに取り入れられていった

艦これでも同様に、赤城が大食いだったり足柄が男漁りをしていたりなどの二次設定が生まれたが、モバマスほど積極的に二次設定を原作ゲームに取り込んでいなかったように思える。

とはいえコンテンツそのものの規模の差は大きく、pixivの投稿数でも、艦これタグのついたイラストが26万件以上なのに対し、モバマスは8万件程度と、モバマスの方が1年半ほど古く始まったサービスなのにも関わらず、艦これの方がはるかに活発である。

■艦これアニメが殺したもの
艦これアニメは、二次創作ネタを拾った。

その結果生まれたものが、足柄の合コンであり、赤城の大盛りカレーである。

私はこれを見たとき、不思議な気持ち悪さを感じた。よくできた二次創作のファンムービーを見ているような気分になったのだ。

恐らく、製作陣はこう考えたのではないか。「二次創作で流行っているネタを盛り込めば、ニヤリと笑って盛り上がるに違いない」と。

だが、少なくともそれは私が見たいものではなかった。確かにネタとしては私も好きだが、それはあくまで二次創作として、いくつも生まれている二次設定の中の一つとして楽しむ範囲の話だ。

艦これアニメは、この二次設定を公式のものとすることで、「合コンをしない足柄」を、「小食な赤城」を、殺した。

思うに、二次創作は、二次創作なのだ。作っている側も、消費している側も、サイドストーリーであり裏側の物語であるということを、意識している。だからこそ、全く異なる世界観の作品が並んでいても、ああこういう解釈もあるよね、ああこの台詞をこう受け取るんだね、という形で楽しむことができる。

艦これアニメが殺したのは、二次創作の可能性だった。猫が入った箱は、観測されるまで中身が分からない。箱の中で猫は液体になっているかもしれないし、気体になっているかもしれない。何を考えても、何を想像しても自由だ。だが、猫は観測されてしまった。もう、猫は猫だ。

モバマスアニメが再生したもの
モバマスアニメは、世界を作った。

渋谷凛渋谷凛らしく、島村卯月島村卯月らしく、ゲームそのもので使われる設定を使って、この子たちがいるべき世界と、そこで語られるべきストーリーを作った。

そこには346プロがあり、武内Pがいて、そしてモバマスの登場キャラクターたちが活躍している世界があった。

そして、その世界の中に、たくさんの「スキマ」を作ってくれた。

武内Pがあっという間に大人気になったのは、武内P自身の魅力もさることながら、このPと自身の担当アイドルはどうやって関係を作ったのだろう、という想像が広がったからだ。

[武内Pとアイドルの日常]
http://dic.pixiv.net/a/%E6%AD%A6%E5%86%85P%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%97%A5%E5%B8%B8


「スキマ」はこれだけではない。この作品では、色々なモチーフが(恐らく意図的に)使われている。それは直接何も説明はしないけれど、想像をたくましくすればどんな解釈でも可能だ。

例えば、前川みく
自分に劣等感を抱えているという彼女の設定が、こういったモチーフに見て取ろうと思えば見て取れる。そこに想像力の「スキマ」がある。そして、二次創作が生まれる。

[アニメ版「アイドルマスターシンデレラガールズ」1話&2話の前川みくについて]
http://togetter.com/li/771731


例えば、高垣楓
第2話で一瞬だけ出てきた彼女は、武内Pと挨拶を交わすシーンしかない。だが、そのやり取りに微妙な違和感を感じられる。そして、二次創作が生まれる。

[アニメ『アイドルマスター シンデレラガールズ』第2話の武内Pと楓さんのやりとりの裏側を補完した漫画が完璧すぎる件]
http://blog.livedoor.jp/qmanews/archives/52119744.html


正直、2011年11月にサービスインしたモバマスは、かなり下火になっていた。二次創作も、もちろんコアなサークルさんは続けていたが、ひところに比べるとずいぶん減っていた。

モバマスアニメが再生したのは、二次創作の可能性だった。魅力的なキャラクターに、彼女たちが活躍する世界とストーリーを与え、そしてそこにたくさんの「スキマ」を作ってくれた。一つの箱が開けられたら、色とりどりの小さな箱がたくさん入っていたのだ。

■おわりに
もちろん、艦これの二次創作がこれで終わるわけではない。アニメを下敷きにした二次創作はこれからもたくさん生まれてくるだろうし、アニメを単なる一つの世界線として、全く別の世界を構築する作品もあるだろう(艦娘かわいい!な作品もね)。

だが、艦これが公式として作ったアニメは、二次創作におけるたくさんの可能性を殺したように思う。そして同時に放送されたモバマスアニメは、これまでの可能性をなるべく殺すことなく、ただ可能性を増やすことに成功したように思う。

まだ、艦これもモバマスも2話までしか放送されていない。これから大きな転換があり、艦これアニメも最終的に唸らされる可能性も、もちろんある。

ただ今のところとしては、艦これには、二次設定を全く気にすることなく、一つの作品として、あるべき世界とあるべき物語を紡いで欲しかった。それでこそ、たくさんの可能性が生まれただろうに、と思うのだ。

【ネタバレ】THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!:アイドルとチームビルディング

THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!」を遅ればせながら
観てきた。
これまでアイマスを追いかけてきたPのための映画であり、グリマスを
プレイしているPのための映画でもあるのだろうな、という印象だった。

少し、アイマスそのもののストーリーとは無関係に強く思ったことが
あるので書き留めておくことにする。
それは、「リーダーの役割」ということだ。

春香はリーダーとなり、リーダーが果たすべき役割に葛藤した。
個人的には、ここが一番観てよかったと思う部分であり、またこの
映画の本筋ではないにせよ、Take awayとして有意義なものだった。

春香に対して美希が言うことも、伊織が言うことも、非常によかった。
端的に言って、リーダーとは「合意形成をする者」ではなく、
「求められた役割を果たす者」でもない。

リーダーとは、「定義する者」なのだ。
ある集団のリーダーは、その集団を定義する。
即ち、何を為し、何を為さないかを。
そして、その結果に責任を持つ。

オメガトライブという漫画で、晴がまさに種の規範として
「親が子を殺さない」というものを定義したように、春香は
アリーナライブにおける765プロの規範を定義した。

それは、「チームのメンバーを見捨てない。例え、それが効率的で
なかったとしても、意志を持つ者を切り捨てない」ということだ。
これが、765プロの、少なくとも春香がリーダーである間の規範だ。

それが正しいか正しくないかは、議論する意味がない。
なぜならば、リーダーとは「定義する者」であり、定理は証明という
手段により、是非を問うことができるが、定義は定めるのみであり、
その時点での是非を問うことはできないからだ。

もちろん、定義した結果は生まれる。
アリーナライブでは、無事によいパフォーマンスが生まれた。
仮に、春香が矢吹可奈を見捨てる決断をしていたらどうだったか。
それはそれで、一つの定義だ。
「ファンに最高のパフォーマンスを届けるために、ついて来られない
メンバーは切り捨てる」という規範だ。

この規範はどちらも正しい、というより正しさを論じられない。
結果を評価して、後付けで論じることは出来るが、それは単なる
評論であり、リーダーの役割を変化させるものではない。

リーダーは、正解などない闇の中にあって、集団の存在意義を
定義することで、進むべき道を示すことが役割だ。

私がこの映画で最も震えたのは、矢吹可奈を迎えに行くと決断した
際の、春香と北沢志保のやり取りだ。
詳細な台詞はうろ覚えだが、北沢志保の「それが、みんなの貴重な
練習時間を削るほど、大切なことですか」という再三の問いかけに
対して、目を見つめたままうなずいたシーンだ。

あれが、765プロの規範が定まった瞬間であり、春香がリーダーに
なった瞬間だった。

また、フォロワーも見事だった。
春香をサポートする立場である千早はもちろん、本来なら対立する
立場である美希や伊織が、春香が本当に果たさなければならない
役割を伝えつつ、春香の示した規範を信頼をもって受け止め、
すぐに行動に移した。

それぞれ、恐らく違う規範を胸に抱いていたかもしれない。
それでも、その違いは「正しさの差」ではなく、「考え方の差」
でしかない。

だからこそ、美希は「春香は甘ちゃんだけど、だからこそ私の
ライバル」と言えるし、伊織は「春香はプロとしては大甘だけど、
最後は何とかする」と言える。

アニマスでの衝突と、その過程での相互理解を経て、対等な、
それでいて異なる立場での個を尊重し合える関係となったからこそ、
この台詞が出て来るのだ。

こういった視点で「THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!」を
観るのは正直邪道であるなぁと思いつつ、非常によくできたリーダーシップと
フォロワーシップ、そしてチームビルディングの映画だったので、こんな
感想を書いた次第だ。

ところで、「眠り姫 THE SLEEPING BE@UTY」を観るにはどこに
お布施すればいいか教えて下さい。

まどか☆マギカ再考1 さやかの願いと絶望

日経BPを読んでいて、ある記事が目に止まった。
「人のため、被災地のため」と思う人が陥る自覚なき勘違いという記事だ。元の記事自体、非常に面白いので是非ご覧頂きたいが、勝手ながら要約すると、

「誰かのために働く」というのは、実は非常に難しい。突き詰めるとそれは最終的に自分のためであり、金銭ではなくとも、笑顔や感謝など、見返りがなければ動機だったはずの優しさは容易に怒りに変わり得る。その「自分のため」という突き詰めた動機を見逃してしまうと、本当に誰かのために働くことは出来ないのではないか。

というような感じだ。とても示唆に富んでいると思う。この記事の中に、こんなくだりがあった。

 「あなたのために私はこんなにやっているのに、なんであなたは分かってくれないの?」と、いくら尽くしてもつれない態度を取る彼氏に対して不満を抱く女性のようになってしまうとも限らないから(尽くす男性とつれない女性でも構わないが……)。

 人のためは自分のため。「誰かのため」とか、「人の役に立たちたい」と働くことは、結局は自分のため。それを忘れてしまうと、それが分かっていないと、本当に人の役に立つことなどできないのではないだろうか。

これを読んで、真っ先に頭に浮かんだのが、まどか☆マギカのさやかだった。

以前、まどか☆マギカは自己犠牲と救済の物語なのか?というエントリを書いた。上の記事を読み、さやかの願いと選択についてもう一度考えてみて、やはりまどかの願いは自己犠牲ではない、とさらに確信を強めたのである。

さやかは、上条の腕を治したいと願い、魔法少女になった。そのとき、彼女が描いていた未来は、どんなものだったのだろうか。それは恐らく、OPに一瞬だけ登場するシーンだったのだろう。

そんな未来を描きながら迷うさやかに、マミさんは警告した。

「美樹さん、あなたは彼に夢を叶えてほしいの?それとも彼の夢を叶えた恩人になりたいの?」
「同じようでも全然違うことよ。これ」
第3話より

至言である。この二つは、願う奇跡が同じものの、その先に描く未来が全く異なる。そして、さやかが「その言い方はちょっと酷い」と言って気を悪くした通り、前者は美しい献身だが、後者はあけすけな欲望だ。

だが、さやかは思い直し、マミさんの言葉を受け入れる。そして彼女は魔法少女になり、一見、マミさんの問いに対して、彼女なりの答えを見つけたように思えた。

「あんた達とは違う魔法少女になる。私はそう決めたんだ。誰かを見捨てるのも、利用するのも、そんな事をする奴らとつるむのも嫌だ。見返りなんていらない。私だけは絶対に自分の為に魔法を使ったりしない」
第8話より

さやかは戦った。彼女の信じる美しい理想を掲げて。その結果どうなったかは、見ての通りだ。
お伽噺の世界では、無垢な献身が何らかの形で報われる。だが、まどか☆マギカの世界では、何らの見返りも得られない。現実がしばしばそうであるように。

さやかの願いは、全てではないにしろ、幾分かは上条に感謝して欲しい、そしてあわよくば一緒に幸せになりたい、という動機からのものだった。さやかは、全ての始まりにおいて、そこから目を逸らした。自分自身の中に、そういう醜い欲望があることに、お伽噺の正義の味方にはなれないことに、背を向けた。

だからこそ、さやかはあれほど絶望したのだろう。恋が叶わないことでも、人間に戻れないことでもなく、自分自身が魔法少女になる前から、理想とかけ離れた存在であったことに気付いてしまったが故に。

私がまどかの願いが自己犠牲によるものではない、と感じるのも、これが理由だ。この物語から、「見返りを求めない献身など、甘い幻想に過ぎない」というポリシーがひしひしと感じられるためだ。

まどかは、さやかが壊れて行く一部始終を全て見ていた。その上で彼女が願ったことが、慈愛に満ちた自己犠牲であるはずがない、と思う。彼女もまた、女神ではなく一人の人間なのだから。

先の記事は、こんな言葉で締めくくられている。

人に優しくなるには、自分が強くならなきゃいけない。人のために仕事をするには、その人を支える強さを持っていなきゃいけない。優しさよりも、むしろ強さが、今求められているのではないだろうか。

私は、やはりまどかは戦士であると思う。ヒーローと言い換えてもいいかもしれない。自分自身の本当の願い、「誰かのために」ではなく、「自分の奥底の望みは何か」と向き合った結果、彼女は救うことではなく、戦うことを選んだのではないかと思うのだ。

杏子やほむらについても色々と思うところがあるので、それはまた日を改めて書きたい。

「場」というエンタテイメント

「まどか☆マギカ、熱狂の本質を理解できない人々」というエントリを読んだ。
後からこの作品に触れた人が楽しめないかどうかは、私が断ずるところではないので触れない。ただ、「場」が、エンタテイメントにおいて大きな場所を占めるようになっているというのは、私自身強く感じているところだ。

「場」とは、空気と言い換えてもいいかもしれない。まどか☆マギカが放送されていた時間は、先のエントリにも書かれているように、何か特別なものがあった。この作品がどういう結末を迎えるのだろう、という期待や不安が、多くの人に共有されてあたかも一つの大きな波を生み出しているようだった。

もちろん、実際にその波に参加している人は、日本全体から見ればとても少ないのだろう。しかし、現在は2ちゃんねるが、Twitterが、SNSがある。その「場」の共有は、少し前よりも遥かにスムーズに為されているはずだ。

少し昔の話をしよう。
ガンパレードマーチ」(ガンパレ)というゲームがあった。もう11年も前のことだ。今でも世界観を継続したゲームは発売されているので、ご存知の方も多いだろう。この作品は、ある点において画期的だった。「世界の謎BBS」というものがあったのだ。

ガンパレの世界には、膨大な設定が詰め込まれている。そして、そのガンパレの世界は現実の世界にリンクしており、相互に影響し合っている、という設定だった。開発会社そのものや開発者すら、その設定上のキーマンとして実際にファンの前で振る舞うほどの徹底ぶりだった。

その結果、ファンたちは世界設定の構造や、散りばめられた伏線を皆で解き明かす、ということに楽しみを見出した。そして、そのための「場」として、かつ、キーマンが稀に登場して裏設定を少しずつ明かす「場」として、開発会社が(恐らく意図的に)提供したのが「世界の謎BBS」であった。

これは多いに盛り上がった。もちろん私も楽しませてもらったし、ゲーム自体の完成度がかなり高かったこともあり、カルト的な人気を博すに至った。「世界の謎BBS」が、その手助けをしたのは間違いないだろう。

この現象、膨大な隠された設定と、少しずつ語られる世界観は、その5年前に放送されたアニメと相似しているように思う。そう、「エヴァ」だ。

エヴァについては既に語られ尽くしているので、ここでは述べない。ただ、エヴァのときに意図せず巻き起こった「場」が、ゲームに舞台を移してある程度意図して作られたのが、ガンパレだったのではないか、と思うのである。

さらにガンパレの2年後、「ひぐらしのなく頃に」(ひぐらし)が頒布された。こちらも私が語るまでもない作品なので詳しくは述べないが、制作者である竜騎士07氏がどこかで語っていた、「ゲームの外で推理を楽しむこともゲームのうち」という言葉が、非常に印象的だった。

つまり、ひぐらしもまた「場」を意識して作られたゲームの一つに数えられると思うのである。現に、ひぐらしの考察スレや、推理Wikiはものすごく盛り上がっていたし、竜騎士07氏自身も、それを煽るような言動や演出を用いていた。

こういった楽しみ方は、新しいエンタテイメントの輪郭をぼんやりと描画しているように思う。中世以前のエンタテイメントは、伝達手段や再生手段の乏しさから、非常に限られたものであった。祭りや演劇、音楽など、実際に「場」を共有することによるものがほとんどであろう。

それに対し、電気が普及した近代では、個人が単に受容するだけのエンタテイメントがどんどん増加してきた。祭りや演劇、音楽を大浴場に例えるなら、シャワーのようなものだろうか。延々と番組を流し続けるテレビがその象徴的な存在だ。受け手はそれを職場や学校で話題にすることはあっても、大きな「場」は共有されづらい。

そして、我々はインターネットを手に入れた。そこでは、どんな大規模な「場」でも共有されうる。私は、先のガンパレひぐらし、そして今回まどか☆マギカを楽しんでいるとき、「祝祭」という言葉が非常にしっくり来るような感覚に襲われる。

この感覚は、インターネットという、巨大な「場」を共有することによる、新しいエンタテイメントの萌芽なのではないかと思うのだ。このエンタテイメントの世界では、いかに作品を完全なものとして作り込むかではなく、いかに楽しめる「場」を作り出すかが勝負になるのである。

そういった意味では、ひぐらしのように、或いは似た出自を持つ「月姫」のように、同人の世界から巨大なエンタテイメントが生まれる可能性が多いにある、面白い世界だと思う。

だが一方で、祭りはいつか終わる。
ガンパレも、ひぐらしも、隠された設定が明らかになるに連れて、徐々に熱は冷めていった。そしてひょっとしたら、まどかも同じ道を辿るのかもしれない。「場」の熱を保ち続けるのは大変なことなのだ。

ここに、一つの巨大な「場」を保ち続けている作品がある。東方Projectだ。ひぐらし月姫と並んで三大同人ジャンルなどと言われたこともあるが、その中で唯一、未だに商業ベースに乗らず同人の世界に留まっている作品だ。それでも、毎年開催されるオンリーイベント博麗神社例大祭」には世界最大の同人イベントであるコミケに準じるような人数が集まる。この作品の二次創作を売買するためだけに、だ。

東方についてはゆゆ様の可愛さとかゆゆ様の優雅さとかゆゆ様のカリスマとか色々語りたいことはあるのだが、ここでは「場」と「二次創作」の関連を述べるに留めておく。

東方Projectは、二次創作のガイドラインを定め、商業ベースにしない限り原則として二次創作を自由化している。そして、原作の中では、ほとんど何も設定が語られないに等しい。二次創作で人気になった設定が、原作に逆輸入されたことすら稀ではないのだ。いわば、一次創作と二次創作が一体となって、一つの大きな東方Projectという「場」を作っていると言えるだろう。

私はここに、一次創作と二次創作の幸福な結婚に、先に書いた新しいエンタテイメントの世界があるのではないかと考えている。大会社が大資本で作る作品は、ハリウッドに任せておけばいい。新海誠氏が、竜騎士07氏が、ZUN氏がやってきたように、個人でも「場」を利用することで、巨大なエンタテイメントを作ることが出来るのだ。そしてそれは、日本人が大いに得意とするところではないか、と私は感じるのである。

蛇足:
二次創作の闇の部分については、もちろん認識している。いわゆる「同人ゴロ」や「転売屋」もまた、二次創作の一つの側面だ。だが、そうだとしても、本当に二次創作は一次創作と相容れないものなのだろうか、という思いはやはり強いのである。

消したい過去 消えない記憶 「あの花」の執着

こちらで、「幼馴染達がめんまに執着しすぎで気持ち悪い」という趣旨のエントリを読んだ。「あの花」という作品に対して私が感じていることは先のエントリで書いた通りだが、このエントリを受けて改めて思うところがあったので、書いてみたい。

「あの花」は未来に向かう物語

私は、この作品は未来に向かう物語だと思っている。まさにここで書かれている通り、めんまの死は過去のものであり、「変えることができない圧倒的な結果」である。

歴史にIFはない。私たちの後悔は先に立たない。じんたんは、あなるは、ゆきあつは、確かに大なり小なり「なぜこうなってしまったのだろう」という思いを持って日々を過ごしているのだろう。だが、それで物語が終わるわけではない。

数年前、私の友人が自殺した。
自殺の理由は、今でも分からない。遺書も残されていなかった。
告別式に出席し、家族と共に骨を拾いながら、私は頭では理解しているつもりだったことを、初めて生々しく感じることになった。

親しい誰かが死んでも、日々は変わらず続いていくのだ。

つまり、残された者は、後を追いでもしない限りどうにかして折り合いをつけ、生きて行かなければならないのだ。もちろん、受ける傷の大きさや、折り合いをつけるまでにかかる時間は人によって異なるだろう。それでも、誰かの物語が終わっても、私の物語は続くのだ。

めんまの物語は、めんまの死で終わった。そして、その他の皆は、自分自身の物語に戻っていった。はずだった。
もしそれが順風満帆で輝かしいものであれば、そこで終わりだったのだろう。現にぽっぽは、ぽっぽだけは、一連の騒動をあっけらかんと積極的に楽しもうとしている。

だが、他のメンバーは、その後の自分自身の物語に違和感を抱き続けている。その原因が全てめんまの死であるはずがない。それでも、メンバーはめんまの死から、何かが決定的に変わってしまった、と感じているのではないだろうか。それは、自分の物語が自分自身のものと感じられない、ふわふわとした実体のなさ、のようなものではないかと私は推測する。

先述の友人の告別式の最中、不謹慎かもしれないが、私は軽く涙ぐみながらこんなことを思っていた。
ああ、この儀式は、生者のためのものだ。
死者の物語をここで終わらせ、生者がその事実を受け入れて自らの物語に戻るための儀式なのだ。と。
じんたんたちは、めんまの物語が、まだ自分たちの物語と絡み合っているように感じているのではないだろうか。

だからこそめんまは姿を現し、「約束」を果たすことで本当に死んでいこうとしている。それが果たされたとき、超平和バスターズのメンバーは、自分の物語と向き合えるように思うのだ。

時間と忘却

「あの花」のEDは、10年前ZONEというグループが歌った懐かしい曲だった。私がまさに青春時代だった頃に流れていたものだ。
懐古厨と言われても、どうしても思い出と繋がってしまうのだから仕方がない。

つまり、10年前は、私にとってまだ鮮やかに思い出せる記憶なのだ。
そして、当時受けた心の古傷も、もう血を流すことはなくなったものの未だに傷跡が残っている。
では20年前はどうだろうか?
残念ながら、かなり靄に包まれつつある、と言わざるを得ない。

以前、「おとなになりたいこども こどもになりたいおとな」というエントリでも書いた通り、私たちは容易に子供であったことを忘れる。小学校の頃、自分が何を思い、何を感じ、どう世界を見ていたか、もうその感覚を取り戻すのは難しい。

だが、じんたんたちは今高校生だ。彼らにとっての10年前が、小学生の思い出であり、めんまの死なのだ。
彼らが、小学生の頃の思い出にあれほど拘ることに違和感を覚えるのは、私たち自身が既に小学生であった自分を忘れつつあるからではないだろうか。

人は変わる。
良しにつけ悪しきにつけ、変わっていかざるを得ない。だがそれでも、「かつて自分は子供であり、若者だった」ということを忘れてしまっては、対話が出来なくなってしまう。あからさまな性欲を描いて権威に反抗しておきながら、そのありようを認めなくなった知事のように。

「あの花」が、これからどういう展開を迎えるかは分からない。だが、残念ながら私はもう小学生ではなく、高校生でもないのだから、彼らの感じることについては、頭で考えることなく、物語に身を委ねようと思うのだ。

劇団イヌカレーとマーサ・グレアムとGoogleロゴ

今日のGoogleロゴは、著名なモダンダンスの開拓者であるマーサ・グレアム氏をアニメーション化したものだった。

実に美しい。思わず流れるような動きに見とれてしまった。そしてこのアニメーションの制作者であるRyan Woodward(ライアン・ウッドワード)氏の他の作品を見て、さらに目を奪われた。

是非、以下の動画を見て頂きたい。一見の価値がある。
Thought of You on Vimeo

ライアン・ウッドワード氏はスパイダーマンシリーズやアイアンマン2などのアニメーションを手掛けているそうだ。ハイテクを駆使した3Dアニメーションが主流で、こういった手書きテイストの手法はあまり用いられていないのではないか、と勝手に思っていたが、全く意識を改められた。

同時に、むくむくと「アニメーションでしか出来ないこと」への感動が湧き上がってきた。アニメーションと言っても、リアルな3DアニメーションやCGではなく、あくまで「絵を動かす」という手法により表現されるもののことだ。この動画の美しさは、腕や体の描く軌跡の描写、現実にはあり得ない肉体の変形や強調などをうまく用いているように思う。

つい最近も、同じことを感じた。どうも最近まどか☆マギカの話題ばかりになってしまって反省するが、異空間設計を担当している劇団イヌカレーの表現を目にしたときである。

あの表現は、3Dモデルを作って動かすというCGの手法ではなく、描かれた絵を動かすというアニメーションでしか為し得ないものだと感じた。劇団イヌカレーによるデザインではないが、まどか☆マギカ9話で、さやかと杏子の血が混じり合い、二人の絵を形作るようなシーンも同様だろう。

さらに言えば、シャフトがよく使う手法だが、現実の空間を無視し、演出を優先した画面を描くのも同じだ。例えば、下のシーンにおいて、出入り口のない展望台は現実を考えると明らかにおかしいが、視聴者に与える印象を優先した画面設計を行っているのだろう。(まどか☆マギカの演出については、こちらで秀逸な記事があるので是非参照されたい)

アニメは、3DアニメーションやCGと同じ地平を目指す必要はない。むしろ、「絵を動かす」という点において、さらに大きな表現の可能性を持っている。一人の受け手としては、海外の波に押されず、アニメでしか為し得ない表現の妙をこれからも堪能したい、と思うのだ。