真摯さのもたらす澄明 「少女ファイト」7巻まで

昨日のエントリで触れたので、日本橋ヨヲコ氏の漫画「少女ファイト」について書いてみる。各所でよくネタにされる「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな」の元ネタである。

なお、以下には1巻のネタバレを少々含むため、注意されたい。

そのとき、私は飢えていた。私生活で悩みを抱えていて、それは頭で考えてもどうなることでもなくて、気分を変え、立ち上がる力をくれるきっかけに飢えていた。

そのとき、ふと友人からこの漫画を勧められた。友人は私のそんな状態を知るはずもなかったのだが、私はこの漫画から大きな力をもらった。

ストーリーは非常にシンプルだ。ある少女が色々なトラウマや試練を乗り越えながら、高校女子バレーボールの世界で仲間と出会い、活躍する物語だ。これだけ見れば、普通のスポーツ漫画と何ら変わらない。

だが、この澄明さはどうだろう。私は、この漫画を読み終わるのが惜しいと思った。そして、続けて3度も読み直してしまった。この漫画に流れる、少し肌寒い春の朝のような空気がとても心地よかったからだ。

この漫画には、悪人がいない。悪意を持って他者を傷つける登場人物がいない。初めは、それがこの空気を生み出しているのかとも思った。しかしそれならば、そういった漫画は他にもたくさんある。「よつばと」だってそうだし、「それでも街は廻っている」だってそうだ。

しばらく頭を悩ませながらもう一度読み始めて、はっとした。
主人公は、バレーボールの名門高校で活躍していた大好きな姉を事故で亡くし、その悲しみを忘れるために始めたバレーボールでも、誤解の果てに爪弾きにされ、追い出される。失意の中、姉の墓の前で泣きながら呟く。

姉ちゃん
もうつかれたよ
私もそっちへ行きたいよ

それに対し、偶然墓参りに来ていた女性が声をかける。女性は、かつて姉と共に全国大会を戦ったセッターだった。彼女は主人公にこう言う。

雑だな

生き方が雑だと言ったんだ
そのままではいつか自分に殺されるぞ

大石
姉貴が最後に試合で見た景色をお前も見たくはないのか?

生きている意味が全て噛み合うその瞬間を味わいたいのなら
丁寧に生きろ

初めて読んだとき、この台詞には痺れた。久々に魂が震えた。
そして読み返したとき、そういうことなのだな、と思った。
この作品の登場人物は、みな生きることに真摯なのだ。上記の女性の言葉を借りるなら、丁寧に生きているのだ。

もちろん、完璧超人ではない。それぞれにトラウマを抱え、それぞれに我儘で、それぞれに失敗する。しかし、彼女たちは自分たちがそういう存在であることをはっきりと認識し、そしてそれに向かい合おうとする。その姿に、私は真摯さを感じたのだ。

それと、もう一つある。
彼女たちは、慣れ合わないのだ。抱えたトラウマについても、誰かにもたれかかったり、誰かが一方的に手を差し伸べるようなことはない。もちろん時には仲間たちの手を借りることもあるが、最後は自分の力で立ち上がるのだ。才能故にでも、努力故にでもなく、真摯であるが故に。

この空気が、最後の一線で凛とした背筋が、この作品に澄んだ心地よさを与えているように思う。
ベタにあまりハイライトを入れず、トーンも多用しないパキっとした絵柄と相まって、私は非常に読んでいて心地よかった。

少女ファイト」おすすめである。

漫画はファストフード化したのか? 中国紙より

やや旧聞に属するが、レコードチャイナがこんな記事を掲載していた
簡単に要約すると、日本文化の代表格であった漫画は「ファストフード化」しており個性がなくなっていたが、今回の震災で日本全体がダメージを負ったことにより、希望とパワーに溢れた素晴らしい作品が生まれるのではないか、という内容であった。

今回の震災がコンテンツ、特に漫画やアニメに与える影響については各所で論じられており、納得できるものも疑問に思うものもあるが、今回はそれに関する議論が趣旨ではないため、措くとする。

私が引っ掛かったのは、海外の新聞紙が「日本の漫画のファストフード化」という表現を用いていたことだ。
この記者がどのような作品に触れてそう感じたかは推測の域を出ないが、少なくとも私の触れている範囲内では、漫画において重厚な、深く考えされられる作品が無くなったとは言えないように思う。

だが一方で、そういった作品はある程度時間をかけて探さなければならなくなったのも事実だろう。その原因の一旦は、日本における漫画が、試行錯誤によって尖鋭化してしまったことにあるのではないか。

以前、「ひぐらしのなく頃に」の竜騎士07氏が、ラノベやアニメや漫画を「DLL」に例えて語っていた文章を読んだ。
DLLとは、非常に簡単に言うとあるコンピュータのプログラムが共用で利用する部品のようなものだ。
氏は、尖鋭化したラノベやアニメや漫画は、共用化された「お約束」をDLLとして受け手に要求するようになり、その結果としてDLLをインストールしていない、つまり「お約束」を知らない人には理解し難いものになる傾向がある、という趣旨のことを語っていた。

氏の言わんとすることはは普段私が感じていたことを的確に表現していたため、思わず膝を打ってしまった。
つまり、金髪ツインテールで声優が釘宮嬢であればツンデレだろう、ツンデレならここでデレるだろう、というお約束だ。

確か、氏はボーイミーツガール系のラノベでよくある、親が海外で仕事をして登場しない設定についても言及していたように記憶している。
現実に即した小説であればある程度の背景説明や心理描写が行われるだろうが、ラノベでは一行で「親は無視してよい情報である」というお約束を提示できるということだ。

今回の中国紙の記事を読んで、もしかしたらこういった状況を見て、記者はファストフード化したという表現を用いたのかもしれないと感じた。確かに、お約束の積み重ねで情報を削ぎ落し、ある一つの切り口に特化した作品はファストフードと呼べなくはないのかもしれない。

だが、個人的にそれも別に構わないではないか、と思う。私はそういった作品を楽しむし、楽しむ際にはそういうスイッチを入れる。作品をもし精神の食べ物に例えるならば、ファストフードもあっていいし、チョコレートボンボンも、フレンチのフルコースもあっていい。ただ、一種類の食べ物が絶対であるかのように考えたり、実際にそれ以外のものが排斥されるようなことは、困る。

かなり前になるが、「最終兵器彼女」という漫画があった。
SFと言えばSFなのだが、はっきり言って設定は目茶苦茶だし、背景すら何も語られない。それどころか、世界が破滅しようとしているのになぜ破滅するのかすら分からないまま物語は終わる。

それでも、私は大泣きに泣いた。作者が、敢えて主人公とヒロイン周辺以外の情報を切り落とすことで、二人の物語を最大限にクローズアップしたことを痛い程感じた。

もちろん、この作品を受け付けず、駄作と思う人もいるだろう。だが、それでいいと思うのだ。最終兵器彼女は、例えるなら具が全く入っていない一皿のスープのようなものかもしれない。それでも、それを楽しめる人はいるに違いないのだ。

話を戻そう。
漫画の先鋭化によってファストフード化した領域が出来てしまっても、選ぶことが出来ればよい。つまり、メニューがあればよいのだ。

だが、それが難しい。
例えば、最近私は「少女ファイト」「ちはやふる」を連続して読んだ。少女ファイトで感動し、女子が部活で戦う漫画が読みたい、と思って記憶の中の「いずれ読むリスト」から「ちはやふる」を引っ張り出してきたのだ。

こういう幸運なケースならまだしも、気分にぴったり合う佳作、傑作を探すのはかなり苦労する。そして、それほど漫画に思い入れのない人は、そこまでの労力を払わないだろう。

個人的に、これが今、漫画やアニメ、ラノベなど、日本の先鋭的なコンテンツが直面している危機の一つように思う。
極めて多様で、入れば入るほど実に面白い。だが、地図がないのだ。手探りで藪を漕いで進もうという者にしか、道は開かれない。これでは、やはりごく一部の人にしか受け入れられなくなってしまう。

尖鋭化は日本人の得意分野であるものの、何とか出来ないものかと日々思うのである。

プロフェッショナルとはかくも美しく 「日常」第6話まで

「日常」には楽しませてもらっている。
元々原作の評判は知っていたのだが、今回アニメを見て原作を読んでみた。そしてすぐに後悔した。ネタバレしてアニメを純粋に楽しめなくなったからだ。

確かに、原作は面白い。シュールな世界は、漫画でしか表現できないものもあると思う。そして、日常のアニメ版が各所で酷評されているのも知っている。

曰く、京アニは萌えを意識し過ぎて原作を殺している。曰く、あの独特なテンポをアニメ化するのは無理だった、など。

だが、私は正直、アニメを充分に楽しめたし、原作に負けず劣らず魅力のある作品になっていると思う。
その原因はいくつかあるだろう。さすが京アニ、と目を引き付ける作画もその一つだし、漫画と違って「一定の速度でコンテンツが流れる」ということを前提とした演出もその一つだ。

ここで取り上げたいのは、その中で私が心底感心した、「声」の部分だ。そしてこれは同時に、漫画とアニメの最大の違いの一つでもある。そう、アニメには「音」があるのだ。

思えば、最近声優に思わず唸らされることが多い。まどか☆マギカでも、悠木碧嬢、斎藤千和嬢の演技には背筋が寒くなるほどのプロフェッショナリズムを感じた。

言うまでもなく、アニメはたくさんの要素が集まって出来ている作品だ。そして、その要素は、「画を撮る」という映画に比べても全く遜色がないだろう。もちろんロケハンやモデルはあるにせよ、「画を描く」ことで、一つの世界をまるごと生み出すのだから。

そして、映画の技法や俳優の演技については、やはり海外に一日の長があるように思う。これは黒澤明小津安二郎など、日本映画の巨人を否定する意図では全くなく、「システマイズされた教育、論理的に分析された技術、それに伴う社会的地位」が確立されているという意味である。個々の作品の優劣を議論するつもりはないし、そんなことは無意味だ。

ご存知の方も多いとは思うが、欧米では演劇や脚本は学問として勉強するものであり、論理的に分析されつくした手法が大学や大学院で教えられている。そして、そういったところを卒業した者たちが、資本主義の論理の中でヒット作を作っているのだ。繰り返すが、作品の優劣を問うつもりは全くない。事実として、ハリウッドの生み出す富はそういった仕組みに支えられ、ますます増加しているという点を指摘しているのみだ。

アニメーションにおいても、ピクサーを始めとする3Dスタジオがヒット作を次々に生み出し、あたかも2Dのアニメーションは古いかのように言われている。上記のような、日本がアニメで築き上げてきた技術も、どんどん分析され、模倣されているだろう(ピクサーなどはあくまで映画なので、テレビアニメの技法とは異なる論理にはなるだろうが)。

だが、まどか☆マギカ、日常を見ていて、私は「声優」の力の偉大さを改めて思い知った。
他国では、声を当てているのはほとんどが俳優や女優であり、「声」の専門家ではない。
もちろん、彼ら・彼女らもプロフェッショナルであることは間違いないが、「声だけ」で全てを表現するという点においては、声優に一歩を譲るのではないだろうか。

少なくとも、私がこれまで見た英語吹き替えのアニメで、日本の声優を上回る程の戦慄を覚えたことはない。
私の勉強不足であれば大変申し訳ないが、まどか☆マギカ10話の、千和嬢の悲痛な叫び、日常5話の、本多真梨子嬢の素を見せたかのような絶妙な演技。
これは、日本が世界に誇れる技術であり、真のプロフェッショナルの仕事である、と感じたのである。
願わくは、この技術が失われず、日本が世界の最前線であり続けんことを。

まどか☆マギカの呪い

つい先日、昨年見事な最終回を迎えたと話題になっていた「惑星のさみだれ」を一気読みした。
私は普段、素晴らしい漫画を読んでいるときには、物語の中に没入する。筋立てがどうこうだの、伏線がどうこうだの、全く考えない。ただ、圧倒的な物語に身を任せ、川を漂う木の葉のように流れていくのだ。
そんな私がこの漫画を読み終えたとき、「ああ、これはよくできた漫画だな」と、他人事のような感想を抱いた。
つまり、感情移入できなかったのである。

原因はただ一つ、まどか☆マギカだ。
せめて、最終回まで見た後か、もう少し時間を置いた頃であれば、こんなことにはならなかっただろう。

未読の方のために付け加えると、「惑星のさみだれ」は、極めて質の高い、よくぞこの巻数でここまで、と思わされるほどの少年漫画だ。
そして、私はこの漫画に出会ったのが、頭からつま先までまどか☆マギカにはまっている時期であったことを心から悔やんだ。

惑星のさみだれ」を非常に単純化して言うと、世界に絶望した少年が、世界を滅ぼそうとする少女に出会い、世界を守る物語だ。
うん、これだけでは全く分からない。

詳しいあらすじはAmazonにでも譲るとして、この物語では、「異界の使者に世界を守って欲しいと言われ、力を得る」という、部分的に魔法少女のフォーマットに則った設定が現れる。

無論主人公は少年(大学生だから少年は苦しいか)だし、契約は本人の意思ではなく勝手に選ばれる巻き込まれ型なので、一概に同じと言うことはできない。
しかし、異界の使者は言うのだ。
「命懸けで戦ってもらう代わりに、願いを一つ叶えよう」と。
この時点で、私の頭には既にきゅっぷぃと不吉な声で鳴くあいつの姿がよぎっていた。

そして、代償としての登場人物たちの願いは、実にささいなものなのだ。
登場人物たちは、戦いの中で傷つき、絶望し、そして再び立ち上がって進んで行く。
その過程は、とても力強く、格好よく、勇気づけられるものだった。

しかし、駄目なのだ。
どうしても、「戦う動機」に感情移入できなかった。
マミさんが、さやかが、杏子が、ほむらが、そしてまどかが、戦いの運命と引き換えに望んだものの重さが、どうしても頭から離れなかったのだ。

惑星のさみだれ」の登場人物は、実に清々しく、命をかけて世界のために戦う運命を受け入れる。
もちろん、少年漫画はそれでいい。
魔法少女も、それでよかったはずだ。

だが、私はもう、誰かのために戦うことを何の屈託もなく受け入れる物語を、同じ目で見られそうにない。
なぜなら、まどか☆マギカの第8話で最後にさやかが見せた泣き笑いが、「私には無理だった。あなたにはそれが出来るの?」と、問いかけてくるからだ。

私には、出来そうにない。
さやかと同じように、私はきっと、「何の見返りもないのに、なぜ他の誰でもなく、私が戦わなければならないのか?」を、いつか自分に問うてしまうだろう。
そして、見返りを与えない者を、戦わぬ者たちを呪うようになるかもしれない。

この感覚は、しばらく私が読む、見る物語の全てに暗い影を落とすだろう。
ある意味で、これはまどか☆マギカという作品の呪いだと思っている。
ひょっとしたら、この呪いは私のような受け手だけではなく、作り手の側にも影響を及ぼすのではないか、とすら思う。

エヴァ以前とエヴァ以後で、アニメの文脈が少し変わったように、まどか以前とまどか以後で、何かが変わるのだろうか。
それとも、単に私の勘違いで終わるのか。

これからしばし、特に魔法少女ものの動向に注目したいと思う。

おとなになりたいこども こどもになりたいおとな 「あの花」3話まで

録り溜めていた「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」を3話まで視聴。
いや、圧倒的な郷愁感だ。
まどかの後に、こういうオリジナルアニメが放送されるのは非常に嬉しい。

私たちは子供の頃、誰でも「なりたかった大人」のイメージを持っていたように思う。
どぶねずみ色のスーツを着て、終電で帰るサラリーマンにはなりたくなかったと、ぼんやり思っていた人も多いのではないだろうか。

けれど、そのイメージは少しずつずれていく。
いつの頃からだろう、あの時こうでありたいと思っていた自分を裏切ることに、違和感を感じなくなったのは。

まだ語られきってはいないけれど、「あの花」の登場人物は、みな子供の頃のイメージを引きずって、今の自分に違和感を感じている。
これは、実はすごいことだ。

年を取るにつれ、私たちは言い訳が上手くなる。
「世の中なんてこんなもんだ」「しょうがないよ、付き合いってもんだあるんだから」
そういう言葉で自分を誤魔化すことに、最初のうちは鋭い痛みを感じていたはずだ。
しかし、その痛みはだんだん鈍くなり、やがて喉の奥に刺さった小骨のようなものになってしまう。

「あの花」の登場人物は、ちょうど大人と子供の中間だ。
じんたんは「大人」という言葉を使っていたが、彼自身、本当の大人だと思ってはいないだろう。
彼の言う「大人」は、「子供」との対比における「大人」であり、失ってもう元には戻らない時間への寂寥感が込められているように思う。

それに対して、私たち大きなお友達は、自分が「大人」であると意識する機会があるだろうか?
余りにも「大人」であることが当たり前になってしまい、「子供」であった自分を、もう忘れてしまってはいないだろうか?

ごみ捨て場から持ってきた板で作った秘密基地。

大海原にも、ジャングルにもなった学校の校庭。

そして、なりたかった「おとな」。

もう、集中しなければ思い出すことも難しい。失ったことにすら、気付かなくなりつつある。

でも、そこには確かにあったのだ。輝かしい時間が。

この後、じんたんとめんまの、そして超平和バスターズの物語がどうなっていくかは分からない。
けれどこの物語を見て、少しだけ、かつて自分だった「こども」のことを思い出すことができた。

うん、明日も生きていこう。

追記:
それにしても、ぽっぽの存在は大きいな。
ああいう、何の衒いもなく昔の仲間に接することの出来る人は尊敬する。学歴や、地位や、お金や、名前以外の何かがどんどん人にはまとわりついてくるものだから。
彼がいたから、超平和バスターズがもう一度集まれたのだろう。

私にも一人、そういう友人がいた。そして彼は、明確に意識してその役割を果たしていた。
……ぽっぽも?まさかね。

まどか☆マギカは自己犠牲と救済の物語なのか?

最終話の放送からずいぶん間が開いてしまったが、ネットで「自己犠牲」「救済」という言葉を交えた多くのレビューを読み、どうしてもまどか☆マギカについて書きたくなったので書いてみる。

自己犠牲という言葉の裏側には、まどかが無償の愛で魔法少女を救う、というニュアンスが含まれているように思う。
だが、本当にそうなのだろうか?

最終話で、まどかはキュゥべぇに対し、「さあ叶えてよ、インキュベーター!」と言う。まどかが強い口調で何かを言い放つのは、物語を通じて初めてのことだ。まどかにこう言わせた動機は、何だったのだろう。
慈悲?憐れみ?心が潰れるほどの悲しみ?
私は、「怒り」だったのではないかと思う。

第9話で、杏子はこう言った。
「あんただっていつかは、否が応でも命懸けで戦わなきゃならない時が来るかもしれない」
そして、最終話の精神世界で、杏子は重ねて言った。
「戦う理由、見つけたんだろ?逃げないって自分で決めたんだろ?なら仕方ないじゃん。後はもう、とことん突っ走るしかねぇんだからさ」

これは、端的にまどかの選択を表しているように思う。
救済という言葉を、何らかの望ましい状態を約束することとするならば、実はまどかは何も救済していない。まどかは魔法少女の願いに、絶望に、幸福に、ましてや人生に、何の責任も持たない。まさに劇中で描かれた通り、さやかは魔法少女になったとしても、やはり恋が報われることはなく、仁美に上条を奪われるのだ。

では、まどかの選択とは何だったのか。
それは、自らの目の前で大切な友人たちに悲しみを強いた「世界の仕組み」と戦う、ということではないだろうか。

そして、その戦いは永遠のものだ。
まどかが法則を書き換えた後でも、実は魔法少女ソウルジェムが穢れたとき魔女を生むという仕組みは何ら変わっていない。まどかは己が戦い続けることを前提に、その仕組みに新しい法則を付け加えることができただけだ。

そう考えると、キュウべぇが第7話で語っていた「戦いの運命を受け入れてまで、君には叶えたい望みがあったんだろう?」という言葉、そして第3話のまどかと父親の会話、「生き方を夢にする」との一貫性に気付く。まどかは、理不尽な世界の仕組みに怒り、永遠の魔法少女であり続けることを願い、永遠の戦いに身を投じることを願ったのだ。

もしそうであるならば、こちらでまどかを表現していた「英雄」という言葉も納得感が高かったが、個人的には「革命者」である、という表現が最もしっくりくる。まどかは神ではなく、戦うことを選んだ革命者だ。

また、最終話で「Always, somewhere, someone is fighting for you.」という英文が提示されたが、ここで「fighting」という単語が用いられた理由も、この物語のテーマに繋がるように思う。もしこれがキリスト的な愛に基づく神の救済の物語であるならば、「caring」でも、「watching」でもよいだろうし、その方が神の概念に近いだろう。
実のところ、この文章を目にしたとき、「カイジ」の電流鉄骨渡りで、カイジが見た幻覚を思い出したのだ。

<以下引用>

 いつも一本の道を想像するのだ……
 暗く……視界をを殺す 濃霧のなか 足元に ほの見える 一本道 
 他になにもないので 仕方なく その上を行く……
 ふと……周りを見渡すと……
 虚空に無数の光があり
 皆のろのろと前進している……前進しつつ……
 ふ……と なんの前触れもなく つい消えたりする……その時……
 理解する 直感的に…… そうか……そういうことか……
 この道は 死へと向かう 一本道
 周りの明かりは おそらく人……オレの心にきっと届かない……
 世界中の人……57億の民……
 これが……この状況が……このオレのいる世界だ
 全ての 飾りを取れば そういうことだ……

 天空を行く一人一人……57億の孤独(あかり)……!!

 全ての人間に手がとどかない 触れられない
 離れている……全て……遠く離れている……
 できることは……通信……通信だけ……!!

(中略)

 理解を望んではいけない……!!
 そう……理解は望めない 真の理解など不可能
 そんなことを望んだら それこそ泥沼
 打てば打つほど 焦燥は深まり 孤独は拗れる
 そうじゃない……そうじゃなく 打とう……!!
 無駄ばかりの誤解続き 人間不信のもと……
 理解とは 程遠い 通信だが
 しかし……打とう……! あるからっ……!

 確かに伝わることが……ひとつ……!!
 温度……存在……!
 生きてるものの息遣い……その……儚い点滅は伝わる……!

(中略)

    「そうか……そういうことか……!
     分かれていなかったんだ……
     希望は……夢は……人間とは別のなにか……
     他のところにあるような気がしてたけど……
     そうじゃない……!
     人間が……人間がつまり……
     希望そのものだったんだ……!

     オレがここに在る……!オレがここに……ここに在るぞ……!
     同じ道程を 行く者が……ここに……!
     ここに在る……!」

<引用終了>

この世界において、自分自身の選択について誰も助けてはくれない。誰も責任を負ってくれない。まどかですら、魔法少女になるという選択が正しいかどうか、その結果幸福になるかどうかに責任は持たない。
でも、それでも。
誰かが、どこかで自分と同じように戦っている。同じ道程を行くものがどこかにいる。それこそが、まどか☆マギカという物語で描かれた「希望」なのではないだろうか。

私は、まどか☆マギカは、自己犠牲と救済の物語ではなく、理不尽な世界の仕組みに対する反逆の物語であり、人生を戦うことへの全面的な肯定の物語だと受け取ったのである。

しかし。
いつか、まどかの戦いが終わり、彼女に安息の日が訪れる物語が見たいと願うのは、蛇足だろうか。

お願いしますよ虚淵さん。