消したい過去 消えない記憶 「あの花」の執着

こちらで、「幼馴染達がめんまに執着しすぎで気持ち悪い」という趣旨のエントリを読んだ。「あの花」という作品に対して私が感じていることは先のエントリで書いた通りだが、このエントリを受けて改めて思うところがあったので、書いてみたい。

「あの花」は未来に向かう物語

私は、この作品は未来に向かう物語だと思っている。まさにここで書かれている通り、めんまの死は過去のものであり、「変えることができない圧倒的な結果」である。

歴史にIFはない。私たちの後悔は先に立たない。じんたんは、あなるは、ゆきあつは、確かに大なり小なり「なぜこうなってしまったのだろう」という思いを持って日々を過ごしているのだろう。だが、それで物語が終わるわけではない。

数年前、私の友人が自殺した。
自殺の理由は、今でも分からない。遺書も残されていなかった。
告別式に出席し、家族と共に骨を拾いながら、私は頭では理解しているつもりだったことを、初めて生々しく感じることになった。

親しい誰かが死んでも、日々は変わらず続いていくのだ。

つまり、残された者は、後を追いでもしない限りどうにかして折り合いをつけ、生きて行かなければならないのだ。もちろん、受ける傷の大きさや、折り合いをつけるまでにかかる時間は人によって異なるだろう。それでも、誰かの物語が終わっても、私の物語は続くのだ。

めんまの物語は、めんまの死で終わった。そして、その他の皆は、自分自身の物語に戻っていった。はずだった。
もしそれが順風満帆で輝かしいものであれば、そこで終わりだったのだろう。現にぽっぽは、ぽっぽだけは、一連の騒動をあっけらかんと積極的に楽しもうとしている。

だが、他のメンバーは、その後の自分自身の物語に違和感を抱き続けている。その原因が全てめんまの死であるはずがない。それでも、メンバーはめんまの死から、何かが決定的に変わってしまった、と感じているのではないだろうか。それは、自分の物語が自分自身のものと感じられない、ふわふわとした実体のなさ、のようなものではないかと私は推測する。

先述の友人の告別式の最中、不謹慎かもしれないが、私は軽く涙ぐみながらこんなことを思っていた。
ああ、この儀式は、生者のためのものだ。
死者の物語をここで終わらせ、生者がその事実を受け入れて自らの物語に戻るための儀式なのだ。と。
じんたんたちは、めんまの物語が、まだ自分たちの物語と絡み合っているように感じているのではないだろうか。

だからこそめんまは姿を現し、「約束」を果たすことで本当に死んでいこうとしている。それが果たされたとき、超平和バスターズのメンバーは、自分の物語と向き合えるように思うのだ。

時間と忘却

「あの花」のEDは、10年前ZONEというグループが歌った懐かしい曲だった。私がまさに青春時代だった頃に流れていたものだ。
懐古厨と言われても、どうしても思い出と繋がってしまうのだから仕方がない。

つまり、10年前は、私にとってまだ鮮やかに思い出せる記憶なのだ。
そして、当時受けた心の古傷も、もう血を流すことはなくなったものの未だに傷跡が残っている。
では20年前はどうだろうか?
残念ながら、かなり靄に包まれつつある、と言わざるを得ない。

以前、「おとなになりたいこども こどもになりたいおとな」というエントリでも書いた通り、私たちは容易に子供であったことを忘れる。小学校の頃、自分が何を思い、何を感じ、どう世界を見ていたか、もうその感覚を取り戻すのは難しい。

だが、じんたんたちは今高校生だ。彼らにとっての10年前が、小学生の思い出であり、めんまの死なのだ。
彼らが、小学生の頃の思い出にあれほど拘ることに違和感を覚えるのは、私たち自身が既に小学生であった自分を忘れつつあるからではないだろうか。

人は変わる。
良しにつけ悪しきにつけ、変わっていかざるを得ない。だがそれでも、「かつて自分は子供であり、若者だった」ということを忘れてしまっては、対話が出来なくなってしまう。あからさまな性欲を描いて権威に反抗しておきながら、そのありようを認めなくなった知事のように。

「あの花」が、これからどういう展開を迎えるかは分からない。だが、残念ながら私はもう小学生ではなく、高校生でもないのだから、彼らの感じることについては、頭で考えることなく、物語に身を委ねようと思うのだ。