おとなになりたいこども こどもになりたいおとな 「あの花」3話まで

録り溜めていた「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」を3話まで視聴。
いや、圧倒的な郷愁感だ。
まどかの後に、こういうオリジナルアニメが放送されるのは非常に嬉しい。

私たちは子供の頃、誰でも「なりたかった大人」のイメージを持っていたように思う。
どぶねずみ色のスーツを着て、終電で帰るサラリーマンにはなりたくなかったと、ぼんやり思っていた人も多いのではないだろうか。

けれど、そのイメージは少しずつずれていく。
いつの頃からだろう、あの時こうでありたいと思っていた自分を裏切ることに、違和感を感じなくなったのは。

まだ語られきってはいないけれど、「あの花」の登場人物は、みな子供の頃のイメージを引きずって、今の自分に違和感を感じている。
これは、実はすごいことだ。

年を取るにつれ、私たちは言い訳が上手くなる。
「世の中なんてこんなもんだ」「しょうがないよ、付き合いってもんだあるんだから」
そういう言葉で自分を誤魔化すことに、最初のうちは鋭い痛みを感じていたはずだ。
しかし、その痛みはだんだん鈍くなり、やがて喉の奥に刺さった小骨のようなものになってしまう。

「あの花」の登場人物は、ちょうど大人と子供の中間だ。
じんたんは「大人」という言葉を使っていたが、彼自身、本当の大人だと思ってはいないだろう。
彼の言う「大人」は、「子供」との対比における「大人」であり、失ってもう元には戻らない時間への寂寥感が込められているように思う。

それに対して、私たち大きなお友達は、自分が「大人」であると意識する機会があるだろうか?
余りにも「大人」であることが当たり前になってしまい、「子供」であった自分を、もう忘れてしまってはいないだろうか?

ごみ捨て場から持ってきた板で作った秘密基地。

大海原にも、ジャングルにもなった学校の校庭。

そして、なりたかった「おとな」。

もう、集中しなければ思い出すことも難しい。失ったことにすら、気付かなくなりつつある。

でも、そこには確かにあったのだ。輝かしい時間が。

この後、じんたんとめんまの、そして超平和バスターズの物語がどうなっていくかは分からない。
けれどこの物語を見て、少しだけ、かつて自分だった「こども」のことを思い出すことができた。

うん、明日も生きていこう。

追記:
それにしても、ぽっぽの存在は大きいな。
ああいう、何の衒いもなく昔の仲間に接することの出来る人は尊敬する。学歴や、地位や、お金や、名前以外の何かがどんどん人にはまとわりついてくるものだから。
彼がいたから、超平和バスターズがもう一度集まれたのだろう。

私にも一人、そういう友人がいた。そして彼は、明確に意識してその役割を果たしていた。
……ぽっぽも?まさかね。